パチンコ産業の歴史

パチンコ産業の歴史については、戦後間もなくの頃から数えても約70年近いものがあるので、とてもではありませんが一言で言い表すことはできません。ここでは、エポック的な動きのみを駆け足で紹介したいと思います。

誕生から戦前まで

現在のパチンコのルーツは諸説あります。かつては、大正時代に欧米から輸入された「コリントゲーム」や「バガテル」といったゲーム機が原点といわれていました。最近では、こうした横に寝ている仕様ではなく、パチンコのように縦型のゲーム機が欧州各地に点在していたことが分かり、こちらをルーツとする考え方が主流になっています。

こうしたゲーム機を露天商が扱い、縁日などに置いたことがパチンコ業の始まりです。昭和に入ると一銭銅貨をはじくタイプの遊技機が人気を博しましたが、皇室の御紋の入った硬貨を遊技に使用するのはまかりならないと言う理由で禁止令が出されると、今度は模擬硬貨としてメダルを使うものや、玉を直接入れて遊ぶ遊技機に変化。またアメや駄菓子といった子供向けの景品がタバコなどに変化したことで大人にも好まれるようになりました。しかし、太平洋戦争に突入してからは、「不要不急の産業」として禁止の憂き目に遭います。金属供出でお寺の鐘や家庭の鍋釜まで回収された時代ですので、パチンコ玉なども当然のように供出され、営業したくてもできない状態でした。

正村ゲージやチューリップでブームに

パチンコの戦後の復興は、農村部などに残っていた戦前の遊技機を改造して営業するところから始まるのですが、昭和20年代の半ばには、今でも「パチンコの神様」といわれる正村竹一氏が、現在のパチンコの基本となる画期的な釘配列「正村ゲージ」を考案しました。それまでのバラ釘と呼ばれる釘配列の間を玉がコトコトと落ちていくパチンコ機が一変し、スリルと意外性という遊びとしての面白さが増した結果、第一次パチンコブームと呼ばれる活況を呈していきます。さらに、昭和20年代の後半には、玉をひとつずつ入れてハンドルを弾く単発式から、現在のような玉皿から自動的に玉が送り込まれる連発式が登場。この時の連発式は、1分間に140〜160個の玉を発射できることなどからパチンコブームはさらに加速し、最盛期には全国に4万5,000軒以上が林立しました。

しかし、この連発式でもってパチンコ自体の射幸性も跳ね上がり、結果、プレイヤーが大量に獲得した賞品を路上などで買い取る通称「バイ人」がホールの回りをうろつくようになりました。さらに、一度に負ける金額が多くなったことなどで社会的な批判が高まり、昭和29年にこの連発式には禁止措置が打ち出されてしまいます。翌30年4月からは、旧来の単発式による営業が強いられ、全国のホールの軒数は一気に1万軒を割り込んでしまいます。

当時のパチンコ機メーカーは、こうした反省を踏まえて射幸性に頼らない遊技機の開発に乗り出し、昭和30年代にはジンミットやチューリップといった遊びのアクセントとなる「ヤクモノ」が登場。また、昭和30年代の雀球のほか、40年頃には今のパチスロ機の原型となる「オリンピアマシン」など、新タイプの遊技機が登場します。さらにこの頃には、玉貸機や玉の補給装置といった省力化機器の発達が後押しし、店舗の大型化も進行。ブームの終わった郊外のボーリング場が続々とホールに鞍替えする現象もみられました。これを機に、ホールも当時のモータリゼーションの流れに反応して郊外型店舗を伸張させていきます。並行して、電動ハンドルや電子基板の搭載など、社会的なエレクトロニクス化の動きも一早く取り入れました。しかしこうした努力を行っても、連発式の禁止後のホール軒数は20数年の長きに渡って1万軒前後で推移するという状態が続いたままでした。

フィーバーの誕生から現在

こうした状況を打破したのが、昭和55(1980)年に登場した「フィーバー機」。社会の経済発展に連動するかたちで射幸性もあがり、その後、年間で数百軒ずつホールが増えるという空前のブームを作り出します。昭和56(1981)年に登場した「ハネ物」もかなりの人気を博したほか、雀球やアレンジボール、さらにはパチスロ機といったように遊技機のバリエーションも増し、大衆娯楽としての人気を不動のものにしていきます。

平成に入ってもその好調さは続き、プリペイドカード方式の導入や遊技機へのカラーモニター搭載など技術革新もどんどん進んだ結果、ホールの市場規模は実に30兆円にも達する巨大産業に成長しました。しかし、好調に映るパチンコ業界には、かつての連発式禁止令とほぼ同様の展開が待ち受けていました。プレイヤーののめり込みに起因するホール駐車場での幼児の事故や多重債務問題、さらには変造プリペイドカードの横行などが社会問題になり、行政による規制、そして業界団体による自主規制などが設けられ、規模縮小を余儀なくされたのです。結果、平成7(1995)年の1万8,000軒をピークに18年連続で減少し、現在のホール数は約1万1,000軒を割り込んでいます。市場規模も縮小傾向にあります。

近年はプレイヤー人口の回復に向けて、1円パチンコに代表される低価貸営業による遊びやすい環境の整備や、幅広い層に支持されるエンターテインメント性を重視した遊技機の開発なども積極的に行われていますが、数値的な回復には至っていないのが現状です。